
中文名 : 冈田茂
英文名 : Shigeru Okada
出生年 : 1924年
出生日 : 3月2日
出生地 : 日本广岛
国家/地区 : 日本
职业1 : 企业家
职业2 : 制片人
首字母 : G
条目星级 : ★
岡田 茂(おかだ しげる、1924年3月2日 – )は、[[日本]]の[[映画プロデューサー]]、[[実業家]]。元[[東映]]・[[東急レクリエーション]]社長、東映会長、同名誉会長、同相談役を経て2006年7月から再び東映名誉会長。[[松竹]]の[[城戸四郎]]、[[東宝]]の[[森岩雄]]が一線を退いてからは「[[日本映画]]界のドン」であり、戦後の日本の娯楽産業を創った一人である。广岛县賀茂郡西条町(現・[[東広島市]]西条)出身。
経歴
中学の頃から身長が180センチ近くあり、遊びと喧嘩に明け暮れた番長だった。一族は酒問屋など事業を手広く行い映画館も持っていた。旧制広島一中(現・[[広島県立広島国泰寺高等学校|広島国泰寺高校]])では[[柔道]]に熱中。卒業後は[[旧制広島高校]](現・[[広島大学]])に進学。この頃たくさんの本を読む。早く読む能力が身に付き、のち[[シナリオ]]を読むのに役立ち、自ら「売り物」と言う仕事の速さにも役立った。1944年[[東京帝国大学]]経済学部に入学するも待ち構えていたのは[[学徒出陣]]。特別幹部候補生として岩沼陸軍航空隊(現在の[[仙台空港]]内)で[[戦闘機]]の整備の任務に就いた。当地は[[グラマン]]に爆撃され[[古川町]](現在の[[大崎市]])に疎開。1945年8月15日、終戦を告げる[[昭和天皇]]による[[玉音放送]]を小学校の校庭で直立不動で聞く。日本が負けた悔しさと命を落とした多くの学友の無念さを思い涙した。
終戦後復学。東大経済学部の学友会である経友会を[[日本共産党]]が牛耳ろうとするのを、猛者を率いて大学の左傾化を阻止したただし岡田本人は政治的には無思想で、大学を日本共産党に支配されることを理不尽だから立ち上がったとしている。その後の岡田は東映で左翼の監督や俳優を活用した(岡田茂『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』角川書店、2004年、p24-p27)。その後も深作欣二を監督に日本共産党に前売券を購入してもらおうと『実録日本共産党』を企画するなどして、右も左もないと言われている(深作欣二、山根貞男『映画監督 深作欣二』ワイズ出版、2003年、p453)(「VS山城新伍」『濃厚民族』浅草キッド、スコラマガジン、2003年、p66)(山城新伍インタビュー『男気万字固め』吉田豪、エンターブレイン、2001年、p20『[[私の履歴書]] 経済人38』,[[日本経済新聞社]]、2004年、p29-p32。卒業後、多くの同期生とは異なる道、「活動屋」の世界に飛び込む決意を固める。東横映画(現・東映)に先に入社していた小学生からの幼馴染[[今田智憲]]の紹介で、[[東急電鉄]]元専務で東横映画社長、広島一中の先輩でもある[[黒川渉三]]に会い、決め手となったのは黒川の「鶏口となるも、牛後となるなかれ、だよ。岡田君」という一言であった。その言葉に違わず当時の映画業界は豪放磊落な人間が集う場だったという。東横映画は旧[[満映]]系の映画人を中核として、元々[[京都]]で映画作りをスタートさせた会社で従業員が100人程の新参者。その存在を知る人は少なく、リスクの大きい映画会社に銀行は融資を渋り、黒川社長は街の金融業者から資金を調達。そのため毎日社長室の前には、取立ての業者が列をなしていた。現場も独特の雰囲気があり、監督や作家などの文化人と一緒に、普通にヤクザやチンピラも混じっているような世界だった。
雑用係からキャリアをスタートさせたが、まわりは岡田を大学出の文学青年ぐらいにしか思ってなかったようで、よく言いがかりを付けられたが、売られた喧嘩は絶対に買った。生意気だけど喧嘩が強そうと次第に認められてという『僕らはそれでも生きていく!』、小石原昭、p149。当時、製作のトップにいた[[マキノ光雄]]に師事。1948年、進行主任に昇格。以前から温めていた企画、戦死した学友達の話を後世に残さなければならない、と戦没学生の遺稿集『はるかなる山河』の映画化を決意。[[東京大学]][[全日本学生自治会総連合]]の急先鋒でわだつみ会の会長だった[[氏家齊一郎]](のち[[日本テレビ]]社長)が「[[天皇制]]批判がない」とクレームを付けたり、会社の看板スターで役員でもあった[[片岡千恵蔵]]、[[月形龍之介]]とも「会社が潰れかかっているのに、この企画では客は来ない」と猛反対されたりした。当時は大物役者がノーと言えば映画は作れない時代だった。絶対にこの映画は当たると大見得えを切り、マキノの助け舟もあって1950年、映画は完成。タイトルを『日本戦歿学生の手記 [[きけ、わだつみの声]]』に変更し公開。珠玉の[[反戦]]映画、と評価を得て大ヒット。しかし当時まだ配給網を持っていなかった東横映画には、あまりお金が入ってこなかった。
1949年、借金の膨らんだ東横映画は東京映画配給、太泉映画と合併し東映として新しくスタート。社長には[[東急]]専務で経理のプロ・大川博が就任し、徹底したコスト管理を推進。同年入社4年目、27歳で京都撮影所製作課長に抜擢される。また従業員組合委員長にも推されて就任。撮影所製作課長は撮影現場の総指揮者である。更に大川社長に呼ばれ「今後、製作の予算は私と君で決める。予算がオーバーしたら君の責任になる」と高く評価され、自分の上にまだ多くの上司がいるのにも関わらず、予算の全権を握り制作費から役者の出演料まで決める実質東映の[[ゼネラルマネージャー]]のような存在となった『[[私の履歴書]] 経済人38』、[[日本経済新聞社]]、2004年、p46。1954年から他社に先駆け大川の断行で二本立て興行を開始。現場は多忙を極めこの年世界一の103本の映画を製作。その甲斐あって東映の専門館が増え会社は大きく飛躍した。
当時のNHKの[[ラジオドラマ]]で人気だった[[新諸国物語]]の冒険活劇を題材に[[中村錦之助]]、[[大友柳太郎]]主演の「[[笛吹童子]]」シリーズ、[[東千代之介]]主演の「[[里見八犬伝]]」シリーズなどの子供向けの東映娯楽版をヒットさせる。時代劇の大御所スターを揃えていた東映は、“時代劇の東映”の地位を確固たるものとした。また当時、[[山口組]]の[[田岡一雄]]組長がマネージメントをし、[[松竹]]映画の出演していた[[美空ひばり]]をマキノとともに引き抜き、ひばりと錦之助のコンビで大いに売り出した。1956年には年間配給収入でトップとなった。
1960年に京都撮影所長に就任。[[山城新伍]]主演で[[テレビ]]制作した『[[白馬童子]]』が人気を得ると、将来のテレビの普及を予想しテレビ制作を増やす。1962年取締役東京撮影所長に就任すると低迷していた東映現代劇を[[アクション]]路線で復活させる。ベテラン監督を切り深作欣二、[[佐藤純彌]]、[[降旗康男]]や[[新東宝]]から引き抜いた[[石井輝男]]、[[渡辺祐介]]、[[瀬川昌治]]ら若い才能を抜擢した。その後、東映を『[[時代劇]]』路線から[[俊藤浩滋]]と組んで「[[人生劇場_飛車角]]」を初めとする[[任侠映画]]路線に転換させる。[[日活]]など他社も追随した。この頃[[藤純子]]主演の『[[緋牡丹博徒]]』など、タイトルの大半は岡田が考えたもので『大奥○秘物語』の○の中に秘を書くマークは今は一般的に使われるがこれも岡田が考えたものである。[[東宝]]から引き抜いて以来パッとしなかった[[鶴田浩二]]を『人生劇場_飛車角』で、『[[網走番外地]]』で[[高倉健]]を、そして「不良番長」シリーズで[[梅宮辰夫]]を売り出す。筋金入りの清純派、[[佐久間良子]]の裸のシーンを売り物に[[田坂具隆]]監督で『[[五番町夕霧楼]]』を大ヒットさせた。
1964年、大川の命で時代劇の衰退した京都撮影所長に再び戻る。揉めに揉めたものの大[[リストラ]]を断行し2100人いた人員を一気に900人に減らした。京都撮影所で撮影する映画は任侠映画を柱とし、映画での時代劇制作を中止するという路線大転換を遂行。時代劇はテレビで制作する事にし、この年東映京都テレビプロダクションを設立して社長を兼任。ギャラの高い役者・監督を説得しここへ移ってもらった。さらに東京撮影所に配置転換したり、助監督を[[東映動画]]へ異動させるなどして、会社の危機を乗り切った。大監督や大スターも受け入れてくれた事で[[テレビ映画]]の地位は高まった。ここからは[[大川橋蔵]]の『[[銭形平次]]』や『[[水戸黄門]]』などを生んだ。子供向けでは時代劇に[[特撮]]をプラスした『[[仮面の忍者_赤影]]』などを生んだ。当時他の映画会社はテレビに消極的で、おかげで東映のシェアは50%超を占め現在も40%台を確保し大きな柱となっている。東映はこの年、東急グループを離脱した。京都でも任侠路線に転換し[[北島三郎]]の『兄弟仁義』、藤純子の『緋牡丹博徒』などを大ヒットさせた。俊藤プロデューサーの娘・藤純子を映画界入りさせたのも岡田である。1966年常務、1968年映画本部長、1971年テレビ本部長を兼務し映像製作部門の全権を掌握。また33歳の若さで専務になっていた大川の息子・毅が[[ボウリング]]、[[タクシー]]、[[ホテル]]などの事業拡大に失敗。[[労組]]が硬化し部課長連合が大川社長に反旗を掲げ六・七十人が株を所有。毅は労組を恐れ出社しない等、のっぴきならない状況となって[[竹井博友]]ら、労使問題のプロも断るような労組担当も引き受ける。この窮地を[[ロックアウト]]を決行し何とか乗り切った。同年8月大川の逝去により社長に就任すると不採算の[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]を[[日拓ホーム]]に譲渡、毅が経営し全国32あった東映[[ボウリング]]センターの大半を売り合理化をさらに推進した。
一方では多角化を推進し、テレビの普及で苦しむ他社を尻目に、テレビに吸い込まれないお客を取り込み〔不良性感度〕映画を標榜。[[菅原文太]]の『[[仁義なき戦い]]』を初めとする「実録路線」や「エログロ映画」を他社に先駆け量産した。抜擢した[[天尾完次]]プロデューサーが、石井輝男や[[鈴木則文]]とのコンビで初めて“ポルノ”と言う言葉を使い、石井の“異常性愛路線”のスタートとなった[[三原葉子]]、[[谷なおみ]]らの『徳川女系図』、[[池玲子]]、[[杉本美樹]]、[[大信田礼子]]らの「女番長・ずべ公番長」シリーズ、[[梶芽衣子]]、[[多岐川裕美]]、[[夏樹陽子]]らの「女囚さそり」シリーズなどのエロ映画を量産した。[[クエンティン・タランティーノ|タランティーノ]]の影響から、2000年代に日本国外で続々DVD化されており再評価(初評価)が進む。1970年前後には他社の二倍近い興行収入を上げた。これらが飽きられると「[[トラック野郎]]」シリーズや[[角川春樹]]と組んで『[[人間の証明]]』、『[[セーラー服と機関銃]]』、『[[魔界転生]]』、『[[麻雀放浪記]]』など、[[フランス]]で大ヒットした『[[新幹線大爆破]]』、今村昌平の今村プロダクションと共同製作して[[カンヌ国際映画祭]]でグランプリを獲った『[[楢山節考]]』など、フジテレビを退社した五社英雄を起用し『[[鬼龍院花子の生涯]]』、「[[極道の妻たち]]」シリーズなどのヒット作や、『[[バトル・ロワイアル]]』などの問題作を生んだ。洋画部は『[[ドラゴンへの道]]』や『[[風の谷のナウシカ]]』、[[後藤久美子]]主演の『[[ラブ・ストーリーを君に]]』『[[ガラスの中の少女]]』等の配給で知られるが、[[ポルノ]]史上最高の大ヒットとなった『[[ディープ・スロート]]』の配給でも知られる。また労組問題で混乱していた系列の[[東映動画]]に親友の今田智憲を社長に据えて建て直し『[[マジンガーZ]]』、『[[銀河鉄道999]]』、『[[ドラゴンボール]]』などの作品を生み、日本アニメの海外進出の大きな推進役となった。その他、[[西崎義展]]が持ち込んだ劇場版『[[宇宙戦艦ヤマト]]』は大ヒットした。
[[テレビ映画]]に関しては、大川博時代に引き続き、制作を進め、『[[暴れん坊将軍]]』『[[遠山の金さん]]』などの時代劇、『[[さすらい刑事旅情編]]』に始まる「刑事」シリーズ、初の[[2時間ドラマ]]として特筆される『[[土曜ワイド劇場]]』、一世を風靡した『[[ジャイアントロボ]]』、『[[仮面ライダー]]』、『[[人造人間キカイダー]]』、『[[バロム・1#特撮テレビドラマ『超人バロム・1』|超人バロム・1]]』などの[[特撮テレビ番組一覧|特撮変身ヒーローもの]]、『[[秘密戦隊ゴレンジャー]]』などの[[スーパー戦隊シリーズ]]、『[[宇宙刑事ギャバン]]』から始まる[[メタルヒーローシリーズ]]、『[[柔道一直線]]』、『[[スケバン刑事]]』などを生み出した。『仮面ライダー』から始まった版権ビジネスは、現在[[キャラクター商品]]の名称で一般的によく知られ、今も大きな収益源となっている。また安い制作費で映画を作るため[[東映ビデオ]]の前進である東映セントラルフィルム(現・セントラルアーツ)を設立。ここからは[[カラオケ]]ビデオや『[[Vシネマ]]』、[[松田優作]]の「遊戯」シリーズ、『ドラマ[[探偵物語]]』、「[[あぶない刑事]]」シリーズ、『泥の河』、『竜二』、『[[ビー・バップ・ハイスクール|ビーバップハイスクール]]』などを生んだ。東映製作では『柳生一族の陰謀』、『動乱』、『[[二百三高地]]』などの大作を生んだ。正面から[[日露戦争]]を描きたいと[[笠原和夫]]に指示して制作した『二百三高地』の大ヒットは、各社大作路線を本格化させた>『映画はやくざなり』、笠原和夫、p91-97。1975年には撮影所の有効利用策として、我が国[[テーマパーク]]のはしりとも言うべき[[東映太秦映画村]]をオープンした。戦後の日本の娯楽産業を創った一人である。
親分肌で豪放な性格で知られ『仁義なき戦い』の[[広島弁]]は岡田の社内での罵詈雑言を[[脚本]]の[[笠原和夫]]が参考にした、という逸話を持つ。また付き合いの広さでも知られ、映画・芸能界のみならず多く経済界と交流を持った。[[早稲田大学]]出身で縁の無い[[小渕恵三]]の後援会が無いと知ると、可哀そうだと早大出身者に呼びかけて作った。また岡田を慕う人達が多く岡田一家と呼ばれたりした。最近は各地の映画祭などで、このような東映映画史を面白おかしく講演して好評である。
日本映画製作者連盟会長、映画産業団体連合会会長、日本映画テレビ製作者協会理事長、日本映画海外普及協会理事長、[[テレビ朝日]]会長、(株)東急レクリエーション代表取締役会長など多くの要職に就く。1978年[[日本アカデミー賞]]の創設にも尽力。会長・名誉会長を歴任し、第30回を迎えた2007年度より同賞では初めて個人名を冠した岡田茂賞が新設された。撮影所所長としても辣腕を振るった岡田の多大な功績を讃え、その年独自の創造性と高い技術力により娯楽性と芸術性を合わせ持った高品質の映画を製作した「製作プロダクション」を顕彰する。
1984年[[藍綬褒章]]、1995年[[勲二等]][[瑞宝章]]受賞。長男は、映画『赤頭巾ちゃん気をつけて』や『実録三億円事件・時効成立』などで知られる元[[俳優]]で現東映社長の[[岡田裕介]]。生命倫理学者、[[高木美也子]]は娘。
2006年7月、三代目社長だった[[高岩淡]]が取締役相談役に退き、岡田茂82歳で名誉会長として再登板。結果、社長・岡田裕介と岡田家のワンツー体制となっている。
エピソード
{{雑多な内容の箇条書き|date=2008年1月|ソートキー=おかたしける}}
注释
著書・参考文献
- 悔いなきわが映画人生/自著 財界研究所
- 波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝/自著 [[角川書店]]
- [[私の履歴書]] 経済人38/[[日本経済新聞社]](2004年)
- 丹波哲郎の好きなヤツ嫌いなヤツ/丹波哲郎著 [[キネマ旬報]]社(1999年)
- 東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム/[[杉作J太郎]]・植地毅著 [[徳間書店]](1999年)
- 楽天楽観 映画監督 [[佐々木康]]/円尾敏郎著 [[ワイズ出版]](2003年)
- [[映画秘宝]]、[[洋泉社]]、2007年10月号
- 日本の映画人 -日本映画の創造者たち-/佐藤忠男著 [[日外アソシエーツ]](2007年)
- 仁義なき戦い 浪漫アルバム/[[杉作J太郎]]、植地毅著 [[徳間書店]](1998年)
- 映画はやくざなり/笠原和夫著 [[新潮社]](2003年)
- 「仁義なき戦い」調査・取材録集成/笠原和夫著 [[太田出版]](2005年)
- 僕らはそれでも生きていく!/小石原昭著 [[財界研究所]](2000年)